手術を経験して

  発見から手術まで     この春から高校1年生の私は、4年前の小学校6年生の夏に家の近くにある市民病院で特発性側弯症という診断を受けました。 日常生活にまったく支障がない中での宣告だったので、小学校6年生の私は訳も分からず、ただ「病気」という言葉に動揺していました。   市民病院で診断され専門病院の紹介 発見した時はカーブの角度が約25度だったので約半年間、その市民病院で経過観察をしました。しかし半年後、約25度だったカーブの角度が約35度と少し進行が見られたので、市民病院の先生に「専門的な病院に行って、専門的な先生に診てもらった方が良いかもしれない」ということで、慶應義塾大学病院を紹介して頂きました。   年3回程度の経過観察 最初はセカンドオピニオンを受け、当時のレントゲン写真などを元に慶應病院の先生からある程度お話しを頂いたうえで、病院を慶應に遷しました。 初診の時のカーブの角度は約35度だったので先生からは、全然手術は考える角度ではないというお話を頂きました。 それから1年に3回程、定期的に受診し経過観察を行いました。 そして、3年後の中学3年生の夏にカーブの角度が約50度になっていたので、絶対では無いし、今すぐと言う訳でもないけど、これ以上の進行防止と将来のことを考えて手術を考えても良いかもしれないというお話を初めて頂きました。   早い時期に手術をする決心 手術なんて縁もゆかりも無い話しだと思っていたので、真面目にビックリしました。でも実際に、普段の学校生活でも姿勢の事で何度か注意を受けたことがありました。 私自身も姿勢のことを言われるのは嫌だったのし、手術をするとしたら高校生や大学生での手術は嫌だったので、そこまで迷うこともなく早い時期に手術を行うことに決心することが出来ました。 そして、中学3年生の冬。受験が終わった後、即入院し手術を受けることが出来ました。  

脊柱側弯症の手術を受けて

  手術に至るまで     私は産まれた頃からの側弯症でした。 逆子で出産時に足が出たまま数時間も放置され、最終的に引っ張り出され右手もブランとなった状態でそれによるものなのか先天性なのか当時も分からない状況でした。 しかし私を抱っこしても体が曲がってしまい、いくつもの病院を受診したのですが、ようやく側弯症と言われたのは何軒もまわってからのこと。   精神的肉体的にも辛い日々   幼いころから悩まされていました 2歳半までコルセットをしていましたが、私に顔面神経痛が出始め家族も精神的肉体的に疲れてしまい、コルセットも通院もやめてしまいました。その頃にカイロの先生と出会い、25年以上お世話になりました。   専門の先生の紹介 中学生になると腰痛も出始め、部活動や体育もしていましたが長時間立っていることが辛く、近所の整形外科に行きました。しかし、側弯の影響とも精密検査が必要とも何も言われませんでした。   整体には通い続け、体調には変わりなく大学を卒業、検査技師となり職場に脊椎専門の先生がいらしたので話をしたところ、慶応義塾大学病院の渡辺先生を紹介され受診しました。    

手術体験記 腰椎変性側弯症

はじめに     私は、20数年来側弯症で、身体がどんどんと曲がりひどい奇形になり10分も歩くと腰が痛くなり家事にも支障をきたし、どこの病院へ行っても治らないと言われ諦めておりました。 それが、去年子供が偶然パソコンで調べ、慶應病院で同じような症状の人が手術をしているよと教えてくれました。   手術   早速受診したところ、側弯症の有名な先生がいらっしゃると渡辺航太先生の診察曜日を予約して下さいました。 渡辺先生は、レントゲンを見て、あまりの曲がりにすぐ手術をしましょうとおっしゃって下さいました。 どこの病院でも手術は出来ないと言われておりましたので、本当に大丈夫なのかとても心配でしたが、私よりずっと年上で手術している人もいるし、年間何人も同じ手術をしてみんな大丈夫ですよと説明を受け決心しました。 とても親切で優しい先生でしたので、安心して昨年の秋手術を受けました。    

側弯症手術をした中3女子の母

学校の保健の先生からの手紙に側弯の疑いが、、     小学5年生の春、娘が「学校で何度もおじぎをさせられたよ」と言ってやって見せたのが始まりでした。学校の保健の先生からの手紙には、側弯の疑いがあるので整形外科の受診をするようにと書かれていました。   それまでは、お風呂に入った時にも全く気がつかなかったので、急いで近くの整形外科を受診しました。   整形外科の受診   近くの整形外科から大学病院を紹介されました 整形外科で撮ったレントゲンを見せられ背骨が曲がった姿を見て、まさか自分の娘がと我が目を疑いました。 そこの先生は、大学病院に行くよう紹介状を書いてくれ、将来のことを考えて他人に口外しない方が良いとアドバイスがありました。   不安な気持ちでいっぱいでした 病気のことがよくわからず、他の人に相談も出来ず秘密にしておかなければならないとは、目の前が真っ暗になったような気持ちでした。 相談出来る人もいないため、インターネットで調べたところ、女子に多く思春期に進行して50度を超えると、中学になるまでに手術に踏み切らなければならない、と書いてありました。   手術まで   最初の大学病院では その大学病院では、まず装具を着けて様子をみること、左右の足の長さが異なるので靴に中敷きを入れるようにと言われました。   装具は重く、体の形に合わず、娘は装着を嫌がりました。また、長時間待たされたうえ、外来の医師がその都度変わり、レントゲンによる経過観察のみでした。   右の腰が盛り上がってくる等について説明がなく、あとでわかったのですが、その大学病院では、他の大学病院から来ている専門の先生が1人だけでやっているものでした。   側弯症の専門の先生に診てもらうまでの葛藤 とにかく可能性があるものは何でもやってみようと、夫と相談し、一縷の望みで、整体院に定期通院し、新しく体に合った装具を作り細かい調整をしていきましたが、背骨の傾きは徐々に大きくなっていきました。   娘は小児ぜんそくがあり、近所の病院に通院していましたが、そこの先生の意見で、医師との信頼関係が大事なので納得がいくまでいろいろな医師の意見を聞いてみた方が良いとの助言を得て、いくつかの病院に行ってみたり、インターネットからの情報を得たり、整体の先生や、整体院関連病院の医師の意見を聞いて、手術実績の多い慶應大学病院が最もふさわしいということになり、受診しました。    

特発性側弯症手術の体験談

はじめに     私が自分の病気のことを知ったのは中学1年生の4月、学校での年度初めの健康診断で「特発性側弯症の疑いあり」と健康手帳に書かれたことがきっかけでした。   整形外科で見てもらう 何のことかもわからず、すぐに近所の整形外科を訪れました。そこでレントゲンを撮り、目にしたのはS字形に曲がった自分の背骨。   「コルセットによる矯正は難しいでしょう」と言われ、紹介していただいたのが慶応病院でした。   専門の病院を紹介され そして松本先生に診察していただいた結果、背中から金属を入れて背骨を固定する手術をすることになったのです。   出来るだけ曲がり方が進まないうちの方がよいということで、学校が夏休みに入るのを待たずに手術していただくことになりました。   中学校生活が始まったばかりで、部活動やいろいろな行事など楽しみにしていたところに起きた全く予期せぬ出来事でした。   手術   手術が決まってから1カ月少しの間に4回通院し、3回の貯血やCT、MRI、レントゲンなどの検査を行って手術への準備を進めました。 その間にも腰痛や頭痛が頻繁に起きるようになり、悪化しているのを感じていました。   入院について 入院は手術の2日前でした。同室になった高校生と大学生のお姉さん達とはすぐに仲良くなり、入院生活が楽しく始まりました。   翌日には、先生方が手術について模型を使いながら詳しく説明して下さいました。   どのような事をするのかよく理解できたことで、手術に対する怖さよりも、曲がった背骨を治していただける嬉しさと期待の方を感じるようになりました。   「大丈夫です!」という先生のお言葉を聞いてとても安心し、手術中はおまかせして眠っていればよいのだと思えました。   手術当日 いよいよ手術当日、手術室へ向かう少し前に麻酔の導入剤のシロップを飲むと眠ってしまいました。   一度起こされて両親と「行ってきます!」「頑張ってね!」と言葉を交わしたそうなのですが、覚えていませんでした。   手術室で麻酔をした時の事は記憶にありますが、次に目覚めたのは術後の集中治療室の中でした。その後の記憶はなく 、気が付くとまた別の病室にいました。   やはり入院中一番つらかったのは術後の痛みです。痛み止めを点滴の中へ入れるためのボタンを沢山押していました。   術後の辛かったときと役にたったこと   食事について 術後1、2日は食欲がなく、ゼリーくらいしか食べられなかったと思います。食べるためにベッドで起き上がることが痛みで難しかったからです。   人生で食べることが嫌になったのはあの時だけだと思います!   辛い時は 誰かと話したりテレビを見たりなど、気を紛らわせることのできない夜中は、余計に痛んだ覚えがあります。起き上がることのつらい数日間は、音楽プレーヤーやDVD、本などがとても役に立ちました。   術後の回復の経過   日に日に、体についていた色々な管が外され、痛みも少しずつ和らぎ回復していくにつれ、歩行器を使って歩いたりリハビリをして過ごしました。   病棟に入れず入院以来会えなかった小学生の弟や学校の友達に手紙が書けるまで起き上がっていられるようになると、食事の時間も楽しみに変わっていました。   退院の頃について そしてトイレへも歩行器なしで行けるようになった頃、退院が決まりました。   退院前に見せていただいたレントゲン写真には、くっきり浮かび上がった金属の棒と一緒に真っ直ぐに伸びた背骨が写っていました。 『どうしたらあのカーブがこんなに真っ直ぐになるのか、数時間でこんなことの出来る先生はすごい!!』と感激したのと同時に、感謝の気持ちで一杯になりました。   同室のお姉さん達よりも先に退院することを心苦しく思いながら、約2週間の入院生活が終わりました。    

先天性後側弯症の手術を受けて

手術にいたるまで     小6の娘が側弯症の手術をうけてから、早いもので一年が経とうとしています。   『手術を受けた方が良い。それも早めに』... 生まれつき背骨以外にもいろいろ問題を抱えており、一つ一つより良い方法を考えて片手では足りないくらいの手術をして乗り越えてきました。   そんな中、背骨に関してはずっと経過観察で、親も本人も『手術を受けずにこのままいけるんじゃないかな…』と、心のどこかで思っていたような気がします。   そんな中、久しぶりに受診した側弯外来で『手術を受けた方が良い。それも早めに』…との話があがり、いつもの経過観察のつもりでいた私達は驚きました。   なかなか手術を決心できませんでした 曲がりの角度が進行していること、本人が腰の痛みを訴えていること、年齢がちょうど第二次性徴になる頃であること、そして、相乗効果で曲がりの進行が心配されること…と、手術を受けるべき条件は揃っていました。   でも、手術する場所が神経の近くであり、決して簡単ではないということは素人でもわかること。『はい、ではよろしくお願いします』と簡単にGOサインを出す気にはなれませんでした。   手術の日程や予定が大変でした 納得いくまで説明を聞き、本人の気持ちを大事にして、学校行事を考慮しつつ予定をたててもらいました。   貯血や、事前の検査のために度々学校を休みました。しかし、いよいよ来週から入院というときに、数週間前にかかった新型インフルエンザの影響が懸念されて、やむなく手術の延期が決定。   その時は気持ちの建て直しが大変でした。出直しで数ヶ月後に決まった手術に向けてまた貯血等をし直しました。   そして入院   前日の先生からの詳しい説明には娘も同席し、分かる言葉で説明してもらい、手術の日を迎えました。   手術中の不安 予定は4―5時間。ところが、予定時間をとうに過ぎ、あたりが暗くなってきても手術室からでてこない娘。先生には申し訳ありませんが、最悪の事態を想像せずにはいられませんでした。   娘を見て泣きながらホッとしました 術後の説明によると、脊髄の状態が悪くなり、様子を見ながらの手術となり、時間がかかったとのこと。 手術室からでてきて、痛がりながらうなされている娘を見て、ああ、痛みもわかっている!と、泣きながらホッとしました。    

重度脊柱側弯症に対する手術を受けて

はじめに     重度の側弯症と低体重、股関節脱臼という状態での手術に対しての期待・不安等について、術後もうすぐ二年になることを振り返ってみました。   手術に対する期待   股関節脱臼に伴い、装具を着用しての日常生活、特にベッド上以外は常に装具着用が不可欠の状態を回避し、脱臼を防ぎたいという希望があった。 重度の側弯が少しでも改善されることで、身体の状態が良好になり日常生活を送れるという強い希望があった。   手術に対する不安     術前の気持ちについて 手術に対しては懇切丁寧な説明があり、極度の不安はなく、むしろ前向きに手術を受ける気持ちが強かった。 説明された中で考えられるさまざまなリスクのうち、重度の側弯の場合のリスクが高いと言われる神経麻痺が大きな不安の一つだった。 他では低体重、体力がない、抵抗力が弱いなどの現在の状況が、まれにみられる感染というリスクを避けられるか気がかりなことだった。 心配はあっても執刀していただく先生方を信頼し、少しでも良い状態になることを望んで手術を受けた。   術後の不安から脱出等 術後は神経の麻痺はなく、経過は順調だったが、術後二度にわたる感染のため、灌流洗浄の手術を受けるが、その都度、的確な治療が行われ、回復し、不安が解消されていった。 特に側弯の手術後、股関節脱臼の手術、脛骨骨折の手術と二年近くに亘って受けたが、高度な技術の専門医の先生方が連携し、何があっても適切に診断され治療をして下さったことは、非常に患者自身にとって心強く励みとなった。精神的な不安の解消は希望、喜びに繋がった。 特に手術前、術後の疑問や不安等に対して理解しやすく説明され、責任をもって対処して下さったことが有難かった。

就学時前に手術を行って

はじめに     妊娠中は順調そのものだったのですが、出産後すぐに異常が分かり、分娩とは別の病院へ搬送され、“先天性奇形症候群”(Goldenher症候群)と診断されました。 異常箇所は、眼・肺・脊椎に奇形が認められ、NICUから今現在も小児専門病院に定期的に通院しています。   最初の定期検診 整形外科は先天性側弯で正常の臼のような形の脊椎が三角形のようになってしまっている奇形が腰のところに1か所あり、約半年に1度ペースでレントゲン検査を行い脊椎のカーブのチェックをしてもらっていました。   手術の時期的にも症状としても今がベスト 6歳を迎えたころ、自覚症状はありませんでしたが、ややコブ角の傾くペースが速くなり、見た目も以前に比べてカーブが目立つようになり、数値としてはぎりぎり手術対象外でもう少しねばれそうだったのですが、主治医や整形外科スタッフ皆さんだけでなく、こちらの慶應義塾大学病院の先生ともコンサルテーションを行っていただいた結果、時期的にも症状としても今がベストと判断され、私たち両親にも説明があり、小学校入学に間に合うようにと手術を行うことを決心しました。   一日でも早く娘の身体が元気に 決心といっても、娘にとって2度目の手術。本人は覚えていませんが、2歳の時に脳外科の難しい手術を行っていたり、気管支炎や喘息で入院経験は豊富になってしまっていたりするので、一日でも早く娘の身体が元気になってくれればという気持ちが一番でした。 ただ、いつも診ていただいている病院では側弯の手術を行っていないということで、都内2か所の病院を紹介され、通いやすい慶応義塾大学病院に決めました。   専門病院での初めての外来   紹介後すぐに外来へ行き、その患者数の多さや施設の大きさに驚きました。   側弯症の外来では 全国でも側弯外来があるのは何か所もあるわけではなく、みなさん遠方から大変苦労なさって通われているのが印象的でした。   当然待ち時間も長く、子供はすぐに飽きてしまうので、手を変え品を変え折り紙・お絵かき帳・シール・絵本・ipodなど持って行った記憶があります。   手術への段取り 外来ではすぐに手術に向けての話が進み、まず術前検査入院があること、そして本番の手術があることを教えてもらいました。   また様々な文書や同意書があり既往歴や予防接種などの記録も記載、記入が多かったので母子手帳は欠かさず持って行っていました。また医療費やその助成や還付の相談にも専用窓口がありますので、そちらで詳しく教えていただけました。   手術前検査入院   採血やレントゲン、CTなどを行いました。   痛い検査は採血だけ、そして数日と短い期間でしたので、入院慣れしている娘はあっという間にプレイルームを見つけ、遊んだり、スタッフの方や同室のお子さんや付き添いのお母さまとおしゃべりしたり…意外とのんびりと過ごしていました。   また、喘息を患っているので、麻酔科の先生や呼吸器科の先生とも連携を取り、手術までは感染症を起こさないこと、喘息発作を起こさないことが目標になり、毎日予防のための薬を飲み、2ヵ月後の手術に備えました。   手術のための入院   最初の1週間は体調管理のため大事をとっての入院開始でした。   面会時間などのこと かかりつけの小児病院は24時間面会可能なのですが、この環境はまだごくまれなようで、19時までの面会が親子共にとてもさみしく感じられました。   共働きで父親は土日しか来られず、母の私もどんなに早く職場を出ても1時間弱の面会時間しか取れず、ちょうど夕食時間のフォローと昼間の報告やほんの少しだけの遊びで、すぐに時間は過ぎていきました。   胸が締め付けられる想いの日々 面会終了の放送が入ると「もう行って!」と自分の気持ちとは裏腹に、寂しさに背を向けてグッと我慢している姿に見送られながら病棟を後にするのは胸が締め付けられる想いの日々でした。   でも、そんな姿に逆に成長を感じたり、前向きに感じたり。身体だけでなく心も強くなれると信じた瞬間でした。   手術の説明 主治医や執刀医を交えての手術の説明は図も描いて下さり、手術のアプローチ法、時間、合併症や今後についての話もあり、言葉もゆっくりかつ分かりやすいものでしたので、こちらからはあまり質問はありませんでした。 時間もまた、お忙しい中、こちらの都合に合わせて下さったのでとても助かりました。   いよいよ手術   手術前日は昼間から病棟へ行くことができ、看護師さんが気を利かせてくれて2人で病棟とお風呂に入ることができました。   また小さな身体にメスを入れるのは親として申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、意気地がない、逃げ出したいのは親の私の方だったのかもしれません。   娘は少し興奮しつつも「はやくごはんがたべたいなぁー。でもおかゆは苦手なんだよねぇ」といつも通りの会話でいつも通りに眠ったそうです。   手術当日 予定よりも開始時間が早まり、最後の最後で泣き出してしまった娘。手術室へ向かう曲がり角までずっと手を挙げていました。   手術そのものはスクリューを4本使って固定するもので、側弯の手術の中では軽度の方だそうです。付添の待機はICUのソファーでずっと新宿の高層ビルと手前の木々を眺めていて、その景色はずっと忘れられないものだと思っています。   手術後 予定時間通り4時間ほどでICUに戻ってきました。   麻酔で眠っているかと思ったら、なんだかとても賑やかで、鎮痛剤が投与されているにもかかわらず、会話は出来て、第一声は「トイレーーーー!!!」でした。   術中術後は導尿もしていますし、オムツもつけているのですが、ずっとずっと「トイレ」と言い続けたまま、両親退室となってしまいました。でも、それくらい話せるなら「大丈夫!」と確信、そして安心し、無事成功した!と感じました。    

保護者手記

はじめに     私は現在17歳(高校2年生)の娘を持つ父親です。 今からちょうど2年前(2008年)の今頃は、毎日が憂鬱で不安、心配の日々を送っていました。可愛い娘の側弯手術が迫っていたからです。   「いつかやらなければならないなら早く手術しようよ」それが娘の意向でした。 現在は、何の不安もなく元気すぎるくらいの順調な術後生活を送れている毎日です。   当時の事を私は手帳にメモしていました。その手帳を見て、手術までの気持ちを参考になればと思いお伝えしようと思います。   手術まで   その手帳を見ると、2008年10月27日、慶應病院で担当医:松本守雄先生との面談で“勇気を出して手術するしかない”と記されています。   この面談では、手術の施行方法が説明されました。 手術時間は通常6時間、今回は松本先生と渡辺先生の二人で行うため4時間前後。娘は50度で通常手術の範囲であるとの説明を受けました。   いよいよ手術が現実のものとしてカウントダウンが始まった感じです。   娘は12月16日に入院、二日後の18日に手術でした。 手術前日17日の夜、松本先生から手術の最終確認と説明があり娘と妻と3人でお話を伺いました。(説明は丁寧で細かく詳しいものでした。)思っていた以上に難しい手術で、危険性も含め側弯手術の術式はまだ新しい方法で、慶應病院では2004年から始まった。   でも松本先生は側弯手術の第一人者で年間70人の手術を行っている、大変信頼出来る先生なのだ!慶應病院にはbad caseにも対応出来る準備で最善の念には念を入れた手術を行う話を聞いて、慶應病院 松本先生との出会いに感謝という気持ちになった。   その時の手帳には、“松本先生は頼もしい”“安心して手術に挑もう!”“成功を祈る。○○がんばれ!”と記されていた。   父親としてはやはり大事な可愛い娘の手術に不安はないと言ったらウソになる心境だったと思う。   そしていよいよ12月18日(木)手術の日 準備万端!娘は9時に堂々と歩いて中央手術室に入って行きました。 ストレッチャーに乗せられた別の手術の大人の患者二人は不安で泣いていました。しかし、15歳の娘は「じゃ、行ってくるわ!」とスタスタと歩いて手術室に・・・実に頼もしかった!   10時に手術開始 14時に手術終了・・・ 松本先生、渡辺先生がストレッチャーに付き添い手術室から出てきた。 「うまくいきました」力強い松本先生の言葉にホッとしました。チーム松本が実に頼もしく、感謝、感謝の気持ちで一杯でした。 「勇気を出して手術をして良かった」と心底思いました。   最後に     手術とは、何が起こるかわからないという怖さや不安は誰にでもあると思います。しかし「手術の先には光明が・・・」と考えると、この事は娘から教えられました。   「手術を早くやりたい・・・そうしたら側弯の心配や不安がなくなる。どうせなら早くやろうよ」娘の言葉に親が勇気をもらった感じでした。   慶應病院 松本守雄先生、渡辺航太先生といった日本一のチームとの出会いに感謝です。

手術体験記

手術体験記   小学校4年頃に手がしびれるとのことで発覚、コルセットで治療を続けていましたが、これも又、幼い本人にとっては苦痛でした。   骨の成長とともに曲がる角度も年々大きくなり、高校生になってからは、肩こり・頭痛が頻度に出現し、本人から手術をしてほしいと言い出し手術に至りました。   両親とも医療従事者なので手術の内容というのはある程度理解していましたが、正直、娘のこととなるとそれはとても心配でした。   手術を終えて   手術を受けてから、大手術ですので多少の痛みはありましたが、肩こり・頭痛などはなくなり、娘も喜んでいます。   固定する場所により違いがありますが、幸い娘は日常生活において、手術前と特に大きな変わりなく過ごせせて頂いております。

大学受験直前に踏み切った手術

はじめに     娘が高校2年生になる春休み、ふとかがんだ後姿を見ると、背中の上の方、肩甲骨の高さが左右で違っているように見えました。   以前新聞で読んだ側弯症の記事を思い出し、すぐにかかりつけの整形外科へ診察に行き、そこでかなり湾曲した背骨のレントゲン写真を見せられ大変驚きました。   今まで、学校の健康診断でも1度も指摘されたことはなく、そんなに曲がっていても、服の上からはその時まで全くわかりませんでした。いつ頃から進んでいたのか今でも全くわかりません。   手術に向けて   最初の病院での経過観察 最初の病院では経過観察とのことでしたが、これ以上進まないと言われた曲がり方も心なしかひどくなっているような気がして、どうしたものか悩んでいた時、こちらのホームページを知りました。   悩んでいたころ 具体的な治療法が詳しく説明されていてよくわかり、また体験者の手記でも、それまで聞いていた体験者の方に比べ術後の回復がとても速く、順調な生活を送られているようでしたので是非診て頂きたいとお願いし、まもなく高校3年になる頃、初めて松本先生の診察を受けることができました。   手術と言われ動揺 レントゲンを撮った結果、この年齢では進まないといわれていた曲がり方も1年でかなり進んでおり、今後背中の痛みなど生活に支障も出ると予想されるため手術を勧められました。   手術をと言われたのは初めてだったので正直初めは動揺しましたが、しばらく考えた後お願いすることに決めました。   手術を決心 まず第1に本人が曲がったままの状態が嫌だと言い、治療に積極的だったことが大きかったと思います。   それまでレントゲンは何回か撮りましたが、直接背骨に触れて診察してくださったのは松本先生が初めてでした。   また、曲がった個所を具体的に示して、そこがこれ以上進むと起きる困った事を具体的に説明して下さったのも初めてのことでした。   安心してお任せしようと思えたことで手術に踏み切ることができました。 折しも受験間近だったため、入学してからの方がよいかと悩んだり、周りからも言われたりしましたが、今になるとあの時に決断して本当によかったと思います。   手術は高3の6月に行いました   いくつかの検査や採血なども学校が休みの日や、多少の早退程度で、直前まで学校、塾へ通ういつも通りの生活ができたため、心配したりする暇もありませんでした。   手術 前日は手術の説明を先生から詳しく受けました。   当日は朝から手術室へ入りましたが2時間余りで無事終わり、水があまり飲めない手術後の一晩が最も辛かったと言っていましたが、翌日から病室へ戻り、水を飲めるようになって楽になったようです。   術後の痛み 傷はかなり長いので初めは痛みもありましたが、点滴や座薬など今は色々な楽になる方法もあり、日に日に順調に回復していきました。   術後の回復 2日目に歩行器で立った時は感激でした。また、術後うつ伏せではなく仰向けで帰って来たのにはびっくりしましたが、本人はあおむけに寝られて楽だったと思います。 歩行器で廊下を段々遠くまで歩けたのも思い出です。    

24歳での側弯症手術を経験して

側弯症の発覚     私が側弯症と診断されたのは、中学1年生、13歳の春でした。 診断当初は30度のS字の側弯症。 どんな病気か、将来的にどうなるのかよく分からぬままコルセットを作り、24時間365日のほぼ毎日、装具と一緒に暮らしていた記憶があります。   中学、高校の6年間はコルセットをつけることに何の抵抗もなく、素直に装着していましたが側弯の進行を遅らせることはできても止めることはできず高校卒業時には50度になっていました。   手術への決意   手術への不安 6年間の経過観察を経て、側弯の進行度合いも少ないことから、コルセットなしの生活が始まりました。コルセットをはずすことで、開放感はあっても側弯が進行する恐怖は拭えませんでした。   実際、1年に1度くらいのペースでS字カーブは進行していたようですが、手術に伴い危険がおこるかもしれない不安や体に傷跡をつけたくない思いで手術は断固拒否していました。   腰痛 しかし、社会人として働くようになった頃から、側弯からくる腰痛に悩まされました。さらに少しずつでも進行しているカーブの現実が将来への不安を煽りました。   将来の不安 これから、社会生活をおくる上で、側弯症と一緒に生活を続けられるのか。出産への悪影響は…?老後はどうなるの…?   こんな思いがループする中、兼ねてより通院していた慶應大学病院の松本先生のもとでの手術を真剣に考え出しました。松本先生のお話ですと、手術をするなら、骨の柔軟性から考えて10代の頃の方がいいが、今からでも遅くはないとのこと。   20代での手術の決意 20代での手術は、骨の柔軟性が少ないため矯正力に欠けたり、骨のつきが遅いなど手術後の回復に時間がかかると言われましたが、このタイミングを逃すことはできないと思い手術を決意しました。   手術体験記   入院前は、手術の3日前でした。   手術前の気持ち 入院前は自己血やGT、MRIの撮影などがありましたが、入院前日まで普通に仕事をしていたこともあり、手術をするのは他人事のようで入院後もなかなか実感がわきませんでした。   手術前の検査など 入院後は、1日目―レントゲン撮影、採血。 2日目―麻酔検査。3日目―手術に備えた下剤の投入など。 このような慌しい日程をこなし、4日目、ついに手術当日を迎えました。   そして手術 少し緊張はしたものの、麻酔をかけられ気持ちよく眠りにつき、7時間後、目覚めたときには手術が終わっていました。   手術前は60度あったカーブが20度に、身長も4cm伸び、ウエストも左右対称、右のお腹の肋骨の出っ張りもなくなり大成功でした。    

腰椎変性側弯症に対する手術を受けて

私の症状     以前は90度位に腰を曲げてしか歩けなかった状態が、手術をした現在では、状態が改善されて少しでも腰を伸ばした立位や歩行の姿勢が出来るようになり、とても嬉しく思います。   少しずつ身体に力が入るようになってきてはいますが、まだ臀部やお腹に力が入らず、思うように動けないこともあります。   手術をしての思い   現在は、ベッドからの起き上がりはつかむところがないと大変ですが、何とか一人で起き上がり、前より少し動作が良くなってきました。 立位も膝やお腹を伸ばして、しっかり立つ練習をしています。   歩行は、杖(一本又は二本)でゆっくりと注意しながら、日常的な移動であれば歩けますが、疲れもあります。   少しずつ身体の動きは良くなっていますが、なかなか筋力が上がらず不安になることもあります。   しかし、現在は家から出て、楽しみながら通所リハビリテーションに通えていることだけでも大変嬉しい事です。

変性側弯症に伴う腰部脊柱管狭窄症

手術まで     私は50歳半ばより腰が痛く感じるようになり、整形外科を受診したところ変性側弯症に伴った腰部脊柱管狭窄症と言われました。 なんでも良いから痛みがとれればよいと思って手術をして頂くようお願いしました。   平成4年、9年、14年と3回手術を受けましたが、いずれも思うように歩けるようにはなりませんでした。   このままの状態で過ごすほかないかと思っていたところ、私の家の近くに慶應病院整形外科から来られた中邨先生が開業されたので、リハビリのため通院しましたが、あまり効果が認められませんでした。   先生に相談しましたところ、慶應病院には狭窄症の人を診て下さる先生がいらっしゃるから伺ってみたらどうかと言われましたので、紹介状を書いて頂いて受診しました。   手術後   松本先生にお目にかかり、今迄の手術の説明をしましたところ今迄と同じ手術では効果が望めないので人工の骨で固定すればまっすぐ立てるようになるのではないかとのご説明を受けましたので、すぐ手術をして頂くようお願いしました。   そして手術は、平成22年4月1日に日が決まり、5時間半という大手術を受け、無事に成功の中で終了することが出来ました。   手術に関わった先生方には心から感謝申し上げております。   術後1ヶ月で退院出来、その後伊豆の月ヶ瀬にあるリハビリセンターで歩行訓練をした結果、1ヶ月ほどで杖を使って歩行出来るようになりました。   術後6ヶ月ほど過ぎたころからは、杖も不要となり、今では1kmくらいは歩けるようになり、旅行も出来るようになりました。 本当に手術をしてよかったと心から感謝しております。ありがとうございました。

私はスポーツを続けたい

側弯症手術のきっかけ     私が側弯症の手術を受けたのは、3年前の2月、大学1年生の冬になります。 19歳でしたが、側弯症とはもうずいぶんと長い付き合いでした。このまま事実に向き合わなくても生きていけるのではないか、と心のどこかで考えていたように思います。 そんな私が、どうして手術を受けようと思えたのか、そしてその後どう生き方が変わったのかについて少しお話させて頂きたいと思います。   普通の大学生活をしていました これを読んで頂いた方々にとってほんの少しでも、役に立てたり、勇気付けになれたら幸いです。   私は、大学に入ってヨットサークルに入部しました。 毎週土日が泊り込みで合宿練習を行い、夏休みなどは30日間中24日間ほど練習していました。   背中は他人より疲れやすかったですが、スポーツが大好きだったので、見た目以外は特に問題は無く生活していました。   きっかけは腰痛から しかし大学1年生の10月、突然ひどい腰痛が起こりました。   地元の整形外科医に見せた所、すぐに慶応病院に紹介しますから見せに行って下さいという話になりました。 先生によると、背骨の側弯がかなり進行していて、手術の必要があるかどうかなどきちんと見てもらったほうが良いとのことでした。   腰痛は2、3日ですっかり治り、今まで10年近く足踏みしていたのが嘘のように、あっという間に専門的な所で診察を受けることになりました。 今思えば、関係なかったはずの腰痛は私にとって大きな転機となりました。      手術への決意   地元の整形外科医の方から、慶應病院の側弯外来・松本先生をご紹介頂きました。   側弯症の専門病院 今まで自分と同じ状態の背中の人に出会ったことさえなかったので、専門的に診て下さる場所があったのは私にとって大きな救いでした。   「これは手術だ」が必要だと レントゲン写真に明かりが照らされた瞬間、愕然としました。 小学生の頃見た自分の背中とは、とても同じものとは思えませんでした。66度と書き込みがされた写真は、先生に何も言われる前から、「これは手術だ」とはっきりと分かってしまう程でした。   手術で懸念すること 手術をすると、最低でも1年間はスポーツ復帰出来ないと言われました。 術後半年経過でようやくランニングを開始して良いとのことでした。   しかし、1年間経ったからといって以前と同じように自分の体が使えるのか分からなかったし、ヨットは一人でやるスポーツではないので、復帰してもチームのメンバーに付いていけないだろうと思いました。   つまり、私にとって手術を受けるということは、その時はスポーツを諦めることと同じことでした。   手術への決断の葛藤 ただ、私にとって明確だったのは今しか時間が無いということと、将来このまま生活を続けることは困難になると考えました。やりたいことは沢山あるけれど、今やるべきことから逃げてはいけない。   その日私は一人で診断を受けに行き、スポーツを諦めなければならない悔しさから思わずその場泣いてしまいましたが、看護師の方々が優しくして下さりとても嬉しく思いました。   手術の日取りが決まると、それからは急に色々なことが動き出しました 手術での失血を補うには他人ではなく自分の血を使用するため、自己血を貯蔵したり、MRIなど、検査がたくさんありました。 しかし、慶應病院の先生方が私のために一生懸命力を尽くして下さることが嬉しくて、段々通院が楽しくなりました。

10歳の娘の2回の手術

はじめに     入院に当たり、記憶だけでは何十年後も覚えていられないと思い、子供へ残す記録として経過を書き留めることにしました。そのうち、参考になりそうなことを紹介します。   手術1回目(腰部)   娘は生まれつきの「先天性側弯症」で、胸部・腰部に「半椎」という、ちゃんとウスの形をしていない三角形の脊椎があり、胸椎の一部にも癒着のあるS字状カーブのタイプでした。   全体的なバランスはとれていたので、5歳の時から経過観察をしていましたが徐々に進行、9歳時には腰痛を訴えるようになり、10歳で腰部のコブ角34度で、腰部の「半椎切除後方固定術」を受けることになりました。   入院 小児病棟のプレイルームで遊んでいます。 靴はかかとストラップのあるクロックスがお勧めです。 手術室で行方不明にならないよう、大きく名前を書いておくといいと思います。   手術前の検査 今回はMRI・CT検査を入院してから受けました。その他色々な検査や前処置を手術前までにします。   手術の2日前 担当医師による手術の説明を、子供と一緒に受けました。 手術の危険性なども説明され、怖くもありましたが、今回の手術部位は、脊髄の神経が馬尾という枝分かれした場所なので、胸部に比べれば危険性が低いということと、10歳にして腰痛では手術をしておいたほうが良いと納得しました。   手術当日 ◇手術着に着替えて出発です。この時、下はT字帯をつけていますが、その後の数日間は大人用の紙オムツを使うと便利でした。   ◇GICUが満床のため、小児病棟の個室に戻りました。本人の第一声「まだ手術してないよ。」 すぐに別室で医師から術後のレントゲン写真をもとに、手術についての報告をうけました。実際の手術は3時間半、前処置と麻酔から醒めるのを待つため時間がかかりました。   ◇状態 :モルヒネ・輸液の点滴が両手につけられています。 ベッド柵上部には、体内に差し込んだドレーンで体内の手術部位から出血した血液を溜める容器を置きます。ここから初めの1回だけ血液を体に戻し、その後は回収のために2日後までつけていました。   足全体に、血栓を防ぐためのエアーバンドが巻かれていて、定期的に膨張・収縮を繰り返していました。   術後 朝おかゆ、食事開始です。昼におならがでました。貯血1パックを輸血。 酸素吸入が終了していたところ、夕方に発熱・ふるえがおき、酸素モニター値が88(92以下でアラームが鳴ります)に低下したので、ナースコールしました。 酸素吸入を再開して落ち着きましたが、少しボーッとしていました。   手術の2日後 モルヒネが減量されてゆき、痛み止めには座薬が数日と、飲み薬は退院まで定期的にでました。(退院時にも処方してくれました。) 指にセンサーをつけていて、「ET」と言うと怒りました。   手術の3日後 突然元気になり、うつぶせになってゲームをはじめ、食欲もでました。   手術の4日後 ガーゼ交換ではじめて傷口確認。表面にびっしり張られているテープは自然にはがれるのを待ちます。 点滴はすべてはずれました。 コルセットの採寸をして、出来るまでの間ギプスをつけることに。息をしやすいようにお腹に穴が開いていて、タヌキのようです・・・。 半椎を切除した影響で、左足までギプスが続いていてパンツがはけず、ここもまたオムツにしておいて良かった点です。(導尿カテーテルはまだついています。)   手術の5日後 リハビリの先生が病室に来て、立つ練習です。 (手術部が腰で、骨も弱かったので、ギプスを作るまで立てませんでした。)歩けるのを確認して、導尿カテーテルを抜きました。   手術の7日後 リハビリの先生と外を歩きました。   手術の8日後 手術後初めての洗髪。リハビリで階段の昇降をしました。   手術の10日後 2日後に退院しました。   退院後 傷口のテープが剥がれていったところ、縫合糸の端が3ミリほど外に出ているのを発見。 抜糸はしないので、体内にある分はそのうち溶けるのでしょうが、さすがに外に出てたら溶けないよね・・・ということで、清潔なハサミで出ているところを切り取りました。   1ヵ月半後 小学校へ登校。この後、3ヵ月後までは、親が自主的に荷物を持ってあげて登下校していました。   約半年後 まだ走ってはいけませんが、運動会では踊りだけ参加しました。みんなが飛び跳ねるところでは、まわるだけにするなど工夫してもらいました。(コルセットは着用しています。)   約8ヵ月後(2回目手術の2週間前) 水泳は半年後から可でした。手術をしたら、またしばらく旅行に行けないので、沖縄の座間味島へ行き、シュノーケルをして白いウツボを見つけて喜んでいました。